国際結婚第一号の日本女性のものがたり

国際結婚

世界が、今よりもっと遠かった明治時代

のちにEECの母と呼ばれるようになった
‘みつ‘という女性の人生に触れたいと思います。

明治5年、明治政府は
近代国家樹立へ向けた制度整備の一つとして
本格的な戸籍制度を開始しました。

戸籍制度ができたのち、
最初に国際結婚をしたのが
オーストリア=ハンガリー帝国の貴族だった
ハインリッヒ・クーデンホーフ=カレルギ―伯爵と
東京府牛込出身の女性、青山みつさん
(のちのクーデンホーフ=カレルギ―光子さん)です。

ハインリッヒ伯爵は、
日本に外交官として派遣されていました。

ある冬の寒い日、
凍った路上で馬ごと転倒し大けがをした伯爵。

このとき看病をしたのが、
大使館に雇われていた
日本人女性のみつさんでした。

恋に落ちた二人は結婚を望みましたが、
当時、外国人との結婚は、彼らにあてがわれた
『現地妻』という認識が強かった時代。

結果、みつさんは勘当されてしまいます。

この頃の日本人女性にとって、
親からの勘当は、現代のそれ以上に辛いことでした。

伯爵は、何とか両親の許しを得ようと、
多額の結納金を払ったといわれています。

たった一夜で大金持ちになった
みつさんの父、青山喜八さん。

「生きているうちに自分の墓を建てるぞ~」
と大きなお墓を建てました。

このお墓があまりに大きかったことから話題を呼び、
その霊園に向かう道が、
「青山さんのお墓に向かう道」
ということで
青山道りと呼ばれるようになりました。

霊園の名前も、いつしか
青山霊園と呼ばれるように(余談(*^_^*))

明治26年、2人は結婚。

これが、正式に届けが出された、
国際結婚の第一号です。

この結婚に際し、伯爵は
東京や横浜に居住している全ヨーロッパ人の前で、
こう宣言しました。

「もし、私の妻に対して、
ヨーロッパ女性に対するのと
同等以外の扱いをするものには、
何人を問わず、ピストルによる決闘を申し込む」

結果、
決闘は1回も行われることはありませんでした。

光子さん(みつから光子に改名されています)は
当時の日本人女性としては
かなり背が高かったと伝えられています。

美人で日本舞踊の素養があり、
立ち振る舞いが優美。

ご夫婦は東京で、
長男のハンスと
次男のリヒャルトという
2人の子どもをもうけます。

その後、伯爵は5年の任期を終え、
帰国することになります。

当時、外交官が国を離れる際、
皇居に招かれ
天皇・皇后両陛下に会うという慣習がありました。

このとき、皇后陛下が、
こんな言葉を光子さんに賜れています。

「遠い外国に住むとなれば、
またずい分と悲しいこと、辛いこともあろう。
しかし、どんな場合にも
日本人としての誇りを忘れないように。」

この思いやりあふれる言葉は、
彼女のヨーロッパでの生活に
勇気を与えたといわれています。

ヨーロッパでの生活が始まり、
最初は辛い日々を送った光子さん。

一生懸命言葉を勉強し、
さらに子どもの学校の勉強が見られるよう
その勉強もしました。

厳しい子育てをしていた光子さんは
ある日子どもにこう聞かれます。

「どうしてウチは、こんなに厳しいの?」

光子お母さんはこう答えました。

「お母さんは日本人です。
日本人としての教育を与えています。」

光子さんは町人出身。
武家や、ましてや皇族の出身ではありません。
そんな光子さんの子育ては、
当時のヨーロッパ貴族の教育と比べても
厳しいものだったというのは興味深いところです。

次々と5人の子どもも生まれました。
優しい夫と7人の子どもに囲まれた幸せな日々。

ところが、1906年、
夫の突然の死が彼女を襲います。

彼の愛情だけを頼りに、
この地で頑張ってきた光子さんにとって、
それはあまりに悲しい出来事でした。

伯爵は、遺書で
「全ての財産を光子」に、と遺していました。
もちろん親戚は大反対。
彼女は譲渡を迫られます。
しかし光子は法も学び、裁判で勝利。
夫の遺産を引き継ぎます。

その頃、
第一次世界大戦で敗戦が濃厚になった
オーストリア=ハンガリー帝国でしたが
光子さんは庭でジャガイモを育て、
その作物を自分で前線に運びました。
そして料理をし、
兵隊さんたちを励ましたといいます。

この戦争が終わった頃、
パリのゲラン社で
「ミツコ」という香水が発売されました。

この香水の名前そのものは、単に
日本人女性をイメージして付けられたようですが、
人々はオーストリアで存在感を持つ
クーデンホーフ伯爵夫人・ ミツコに
結び付けて連想しました。

光子の次男のリヒャルトは
「ヨーロッパの人間が互いに戦い合っていては、
やがてヨーロッパはダメになる」として、
ヨーロッパの全ての国が合体して
一つの国になるべきだという思想を打ち立てます。

そう、今のEUの前身となる思想です。

彼はスイス政府の援助で国外脱出したのちも
この思想を唱え続け、
1958年、それは
欧州経済機構 (EEC)の成立となって実を結びます。

晩年、光子さんは次女のオルガと暮らし、
彼女に看取られ67年の生涯を閉じました。

偏見に屈せず、愛を貫いた女性のものがたり。

彼女は、
”極東のわけのわからぬ小国”
という印象だったであろう日本に
人の顔を映してくれた
素晴らしい外交官だったのだと、
思います。

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