今も北海道を日本と呼べる理由

守り抜いた人

今年も暑い夏がやってきました。

1945年。

77年前の夏の日本は、

どんな夏だったのでしょうか。

昭和20年、8月15日。

日本は敗戦が決定しました。

しかし、8月15日以降も、壮絶な戦いがあったことを

私たち多くの日本人は知りません。

それは、北海道。

また、樺太や満州といった地域で起きました。

当時、日本と日ソ中立条約を結んでいたソ連。

それが突如、条約を破棄し、8月8日に 宣戦布告。

9日午前零時

南樺太・千島列島・満洲国・朝鮮半島北部等への

侵攻が開始されました。

この時、駐ソ日本大使館から本土に向けての

電話通信回線は全て切断されており、

完全な奇襲攻撃でした。

8月9日。

日本は長崎に2回目の原爆を投下されています。

当時、ホワイトハウスにもソ連共産党のコミンテルが入り込み、

ソ連はもちろんアメリカが原爆を落とすことを把握していました。

100%負けが決定していた日本に、

8月9日、樺太、満州にソ連がなだれ込んで来ました。

虫の息だった日本へのこの攻撃は、

歴史上、これ以上の火事場泥棒はないと言われています。

このとき、樺太でも、満州でも、

大虐殺と大蹂躙がありました。

そして、千島列島の一番北に

占守島(シュムシュ島)という島があります。

ここは、北の最前線として守備部隊の方々がいました。

今ほど通信が整っていなかった77年前

8月9日以降、満州や樺太で起きていた悲劇が

ここの人々には届いていませんでした。

8月15日、終戦の知らせ。

打ちひしがれつつも、翌日には

生きて家族のもとに帰れるということに

希望を見出していたことでしょう。

武装解除し、本州への帰還を模索し始めた8月18日。

攻めてくる軍艦が視界に入ります。

当初、どこの国の軍艦かもわからず

戸惑った占守島の守備隊の方々も

おびただしい数の軍艦が

ソ連のものだとわかります。

緊急武装し、隊長から攻撃命令がくだります。

日本の土地を奪われるものかと、

残っていた大砲を打ちまくる日本軍。

夏の暑さに主砲が燃え溶けそうになるのを

水を掛けながら砲撃。

ソ連は当然のことながら、

樺太はもちろん、北海道以北は全て

自分たちのものにしようという青写真を描いていました。

占守島から南下する部隊と、

樺太を抑えた後に北方領土。

北と東から北海道を挟み撃ちにする。

上手くいけばもっと南下しようとしていたでしょう。

しかし、占守島の方々のあまりに勇敢な戦いに、

完全に足止めを食らいます。

戦車で攻め込んだ日本軍の隊長の1人は、

被弾し燃え盛る戦車のまま、

まったく操縦不能になることなく

敵隊に突っ込んでいったといいます。

「ここを守らなければ、千島列島、

そして北海道・東北と奪われてしまう」と

本気で日本を守ろうと戦った方々。

おかげで、日本は北半分がとられることなく、

北海道は、今も日本です。

北方領土

この戦いで、ソ連の戦死者は1,600~1,800人。

日本の戦死者は1,000人ほどと、いわれています。

(300人という説もあるそうです)

すでに武装解除を始めていた日本軍が、

ここまで強いと思っていなかったソ連は、

大きく思惑を外されることになります。

この間にアメリカの戦後統治がすすみ、

ロシア軍はこれ以上進撃できなくなりました。

そして、ロシア主導での武装解除。

「とりあえず」と収容所に入れられ、

その後連れていかれた場所が、

そう、シベリアです。

数日前、家族のもとに帰れると思っていた日本軍の方々が、

この占守島の戦いを生き延びた方々が、

いったい何人シベリアの強制労働で亡くなったのでしょう。

教科書には載っていない、本当の歴史。

日本を守ってくれた人たちがいて、今がある。

夏は、先人への感謝を、

より想う季節にしたいと思います。

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