織田信長は本能寺を生き延びた?!

前回に続き、お送りいたします。

信長が本能寺で亡くなったとされているのは

1582年。49歳の時。

前回最後に触れたように、

織田家は織田弾正(だんじょう)の家柄でした。

では、弾正というのはどういう役職でしょうか?

律令体制の下でのトップは、天皇陛下です。

天皇の下に、

太政官や神祇官という方たちがいました。

神祇官は全国の神社を統括しています。

全国の神社に決定事項を伝達することで、

情報を行き渡らせることができ、

庶民の状況も神社のネットワークを使って

上に吸い上げることができました。

これが律令体制です。

このような素晴らしい政治体制があっても、

運用する側がひどかったら…

また、彼らを信頼し、

自分たちの役割を果たす民度の高さも

民衆に求められます。

運用する側が国民の幸せを願い、

そのことを国民が信頼することで成り立つシステム。

そして、もう一つ。

この制度がスムーズに行くために

政治が腐敗しないよう見守る機能が設けられました。

それが、弾正台という組織です。

この組織は太政官や神祇官などの役人たちが

不正を行った際、裁けるという役職です。

ただし、弾正台という役職が

歴史上活躍したという記録はないそうです。

つまり、太政官も神祇官も

不正せずに正しく仕事をしていた…

または、弾正台という重石があることで、

正常な状態で動くことができたのかもしれません。

唯一、弾正台が動いた事件があります。

それが『桶狭間の戦い』です。

若い頃、大うつけと言われていた信長。

うつけものの信長が跡取り…

これでは織田家も潰れる💦

そう噂されていた吉法師(きっぽうし・信長の幼名)。

「今川が朝廷に矢をむけるのは許せない」

そう立ち上がった時、

家臣は奮い立ったのかもしれません。

ここで信長が戦いの前に舞った 『敦盛』は、

あまりに有名です。

「人間五十年 

化天の内をくらぶれば 

夢幻のごとくなり」

弾正忠家を継ぐ信長が、

桶狭間で今川義元の首をはねたことは

もちろん、全国の武士たちに伝わりました。

筋を通した信長のもとに、 徐々に全国から集まる侍たち。

この人たちを食べさせるために

信長が考えたのが 「楽市・楽座」でした。

(税を免除し誰でも商売ができるように)

今までピンハネされていた税収が

織田家に集まるようになりました。

信長が唱えた『天下布武(てんかふぶ)』。

~天下のゆがみを竹(武)のように

まっすぐに整えること~

これこそ、弾正という家柄の役割でした。

信長は天下をまっすぐにしていくという一大事業の中で、

ついに京の都に攻め上り、

1,000年続いた大きなゆがみを正しました。

比叡山延暦寺攻めと本願寺攻めです。

仏教寺院を軍事力で制圧。

それだけを聞くと、お坊さんたちを侍が切る。

とんでもないことのように聞こえます。

が、 奈良時代から信長の時代に至るまでの長きにわたり

仏教勢力は僧兵を抱えていました。

彼らは乱暴で、粗雑。

境内に娼婦を連れ込んでどんちゃん騒ぎ。

また、朝廷に無理難題を吹きかける。

(強訴といって武力をもって朝廷を脅し予算をとる)

そんなことを毎年の恒例行事として

1000年もの間、繰り広げてきました。

仏教を利用して繰り返される乱暴・狼藉。

ですが聖武天皇の時代に

「仏教を国として大切に保護する」

という 詔(みことのり)が打ち出されています。

つまり、お坊さんの格好をしていれば

人々は口を閉じるしかなかったのです。

信長は、この僧兵がたむろしていた 比叡山の僧房を、

完全に焼き払いました。

このとき、男性しかいないはずの宿坊から

「女たちが逃げ出した。」という記録が残っています。

次に信長は本願寺攻めを決行。

‘‘仏教勢力の中の悪いところを切り取った。

‘‘ 一見、良いことのように見えますが、

仏教の総本山の比叡山延暦寺や

本願寺という お寺を攻めた信長は、

攻められた側からすれば まさに、仏の敵。

信長は第六天の魔王である。

つまり、信長を倒すのは聖なる戦いである…という流れです。

これは今風に言えば、テロ。

もしテロリズムが行われるようになり、

関係のない民衆まで被害を受けることになったら、

天下布武は成し遂げられません。

つまり、次の課題は 『どうすれば復讐を防げるか』。

そのためには信長に恨みを徹底的に集中させ、

全ての仏教勢力の敵は信長ただ一人

という 構図を作る必要がありました。

それを成した後で、第六天の魔王である信長が

一番信頼している部下に倒される。

また、その倒され方が、

地獄の業火に炙られ、悔し涙を流して…

そんな最後だったらどうでしょう?

そう!まさに『信長は仏罰を与えられたのだ!』となります。

そうなると、 もう仏教勢力は攻撃をする対象がいなくなります。

もし、このような作戦を信長が立てたとしたら、

‘‘誰に信長を討つ役をさせるのか?‘‘

ここが、とても重要になります。

時代を俯瞰して見る力があり、

事態を完全に掌握・理解し、

罪を一身に背負う才能のある家臣。

そう、明智光秀です。

信長が本当にこれを発案したか。

光秀が本当にそれを受け入れたのか。

本能寺の変は、本当に壮大な芝居だったのか。

それは、分かりません。

ですが、100%否定することもまた、できません。

日本のこと「戦国時代編」は、次が最終回。

もし、本能寺の変が壮大な芝居だったのならば

その後、信長と光秀はどうなったのでしょう。

2人に変わり歴史の表舞台にたった、

秀吉と家康にどう影響していったのでしょうか。

次回をお楽しみに!

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