本能寺は壮大な芝居だったのか? 織田信長(最終編)

本能寺の変は壮大な芝居だったのか…

それを紐解く前に、

ググっと私たちの視野を広げて

その頃、世界はどう動いていたかを

見ていきたいと思います。

意外に感じますが 中世日本では、

実は多くの日本人が 海外に渡っていました。

14世紀にはアユタヤ(現タイ)に日本人町ができ

16世紀には1000人規模の街になっています。

他にも東南アジア各地に日本人町がありました。

また、1571年にはポルトガル船が

マラッカ・マカオ・長崎間に

定期航路を開設しています。

激動の国内事情に、 つい目が向いてしまうこの時代

ですが、 同時に、急激なグローバル化が

進んだ時代でもあったのです。

また、1300年代から日本海・東シナ海に

和冠というグループが存在しました。

倭人で構成された和冠は、

そのまっとうな商法で

海外の商人の心を掴んでいました。

しかし、大きな利益を上げていくのを見た 他民族が

和冠を名乗り、海を闊歩するように…

戦国期には明人が束ねる中国海商になっていました。

その頭領が明軍に処刑され、

スキをついて現れたのが、南蛮船です。

魑魅魍魎がうずまく海上。

そう、時は大航海時代。

欧州列強の先鞭となったのが、

ポルトガルとスペイン。

両国は次々に新大陸を見つけては植民地化。

そこで2国間で(勝手に)世界を2分割し

自国領土とするデマルカシオン体制を条約で結びました。

日本は、両国が占有を主張できる位置にありました。

1580年、ポルトガル王が戦死し

王朝が断絶したことに伴い

時のスペイン王フェリペ二世はポルトガルを併合。

これによりスペインは

全世界に領土を持つ国になったのです。

この情勢を、 信長は把握していました。

すでに多くの領土を世界に有していた南蛮。

もし、明も取られれば日本も包囲される形になります。

それをけん制する為の「唐入り」です。

(なぜか後に朝鮮出兵といわれるように)

つまり、この時の日本の目的は

明(ましてや朝鮮)を 占領することではなく、

その先のスペインの動きを見据え、

牽制して行われたものでした。

天正20年、秀吉は仮途入明を要求も、

朝鮮はこれを拒否。

(仮途入明→明に入るまでの道を貸すこと)

日本軍は釜山城、

次いで首都漢城を落とし平壌まで北上。

近年に至るまで、

この唐入りは、 秀吉の征服欲の暴走と考えられていました。

が、天正10年のルイス・フロイスの書簡で

『唐入りは信長の考えであった』 と、

明記されています。

君主、信長がいなくなった後も、

その言葉を体現した秀吉。

彼は唐入りと時を同じくして、

スペインのアジア侵攻最前線にあった フィリピンの総督

(在比スペイン総督)に 書簡を送っています。

◉フィリピンに対する日本への服属要求◉

このときフィリピン総督は‘恐怖に震えた‘と、

伝えられています。

「カステリアの王に伝えよ 予が言 

決して軽んずべからず」

秀吉は他の対外政策でも 強気な書簡を送り続けました。

1570年代に来日したポルトガル人宣教師

ジョアンロドリーゲスは、 著書にこう書いています。

明や朝鮮は異国人に対し

「自国を侵略してくるのではないか」

と 用心し軽蔑する。

しかし、日本人はまるで逆で、

異国人に歓待と好意を示し

国に入って来るのに任せている。

それは「侵略できるものか」

という 絶対的な自信があるからだ。

戦国時代、多くの宣教師が日本に渡ってきています。

さまざま残っている「日本報告書」の中で、

共通して言及していること。

それは、日本の軍事力の高さ。

日本人の特性として

「几帳面」「完璧主義」

「理解力が高く」 「闘争的」

が共通しているそうです。

100年にわたる内乱により、

戦術を練り上げ続けた結果、

日本は世界有数の軍事大国になっていたのです。

日本は、軍事大国として大きな、

とても大きな力を持った状態で、

鎖国に入っていきました。

では❣ググっと視野を日本の中に戻します。

本能寺の変のその日、

‘‘大音響が轟いた‘‘という記述があります。

当時の鉄砲には火薬が使われており、

それが大爆発し、

そのため信長の遺体も吹っ飛んでしまった。

そう検証されている方もいらっしゃいます。

ですが、遺体が見つからなかったという点から

『信長生存説』も、根強く検証されています。

◦本能寺は火薬を貯蔵していて地下通路があった

◦天下布武の為に第六天の魔王をやり切った信長は

薩摩に行き、余生を過ごした

◦長野で濃姫とのんびり過ごした

◦フィリピン経由でヨーロッパに渡った

◦ジョルダーノ・ブルーノ説 など、

さまざまな説が説かれています。

どれも面白い説で、どれも 「さもありなん!」

という深掘りと 「全否定」の両方が存在します。

織田家、という枠組みに縛られず、

日本をどんな国にするかを念頭に

常に外の世界も意識し政治を行っていた信長。

唸るようにお金を持っていた信長。

「これからの時間は、自分のことだけに使っていい!」

そうなった時、

彼ならば、 ‘‘海を渡って世界をみる道を選んだのではないか…‘‘

そう私は想像し、ロマンを感じます。

皆さんは、どう思われますか?

壮大な芝居説、いかがでしたでしょうか?

そうだったかもしれないし、

やはり本能寺で亡くなったのかもしれない。

ですが、 アフリカ、南北アメリカ、

そしてアジアの多くの国が欧州に侵略される中で、

植民地にならずに残った日本。

それは自然が味方したとか、

神風が吹いたから…だけでなく、

『侵略を許さなかった人たちがいて、今がある』 のだと、

そこは確信しています。

私たちはどんな日本を、次世代に手渡すのでしょうか。

日本のこと「戦国時代編」。

お読みいただきありがとうございました。

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